「5:46」と「笑顔が戻りますように」

2010年06月09日 00:00

長くてものすごく重い記事です。興味のない方はスルーした方が賢明です。

では、注意喚起終了。




ピアプロにもサイトのボカロ部にも登録している楽曲「5:46-動かない針-」と「笑顔が戻りますように」の舞台裏というか、この曲を書くきっかけになった事件を今日は記事にしてみようと思います。


「5:46」の主人公である男性と「笑顔が戻りますように」の主人公である女性は恋人同士でもあり、婚約もして、同棲中でした。

1995年1月16日夜。神戸。
看護士であった彼女は、夜勤のためいつもの笑顔を残して二人の部屋を出て、勤務先のM病院へ向かいます。そのまま夜勤を終えて、彼の待つ部屋へ帰るはずでした。

1月17日5:46。

淡路島を震源地とした大地震が神戸にも甚大な被害をもたらしました。M病院のあった東灘区旧本山村エリアは震度6強の激震で、M病院は圧壊しました。圧壊というのは、例えば7階建ての建物ならその内の一部である3階と5階だけが崩壊する現象で、その他の階は比較的軽微なな被害で済む現象のことです。彼女は、この圧壊した階で夜勤に就いていました。(M病院の記事を調べると全壊、倒壊という言葉も出てきていますので正確な状態はわからないのですが)

このM病院では、看護士や患者が正確な数は忘れましたが、十名以上亡くなっています。

揺れの収まった直後、彼は部屋を飛び出して彼女の勤務していたM病院へ向かいます。まだ携帯電話も普及しておらず、地震で電話、電気、水道、ガスの全てが寸断され、連絡を取るには現地に行くしかなかったのです。

彼女の勤務していたM病院は、よく晴れた朝陽の中で悲惨な姿を晒していたことでしょう。神戸市の中で倒壊した入院施設のある病院はこのM病院と長田区にあったN病院の2箇所だけだったんですから。

あちこちで建物が崩壊し火災まで発生、消防も救急も、警察さえ身動きが取れない中、M病院には勤務者や入院患者を心配する人が集まってきていたことでしょう。それでも、既に圧壊している病院の中に入ろうとした人は少なかったのかも知れません。
彼は、きっと意を決してその圧壊した病院に入りました。余震が起きれば病院の崩壊はさらに進み、自らも命の危険があることを承知していたでしょうが、彼女の安否を気遣う気持ちが勝ったのだと思います。

彼が、彼女の第一発見者でした。

ですが、すでに彼女は死亡していました。

当時の新聞記事には、死因まで書いてなかったように記憶していますが、おそらく圧死されたのだと思います。建物の崩壊に巻き込まれて即死だったのかも知れません。

神戸新聞の新聞記事には、ここまでしか書かれてなかったように記憶しています(神戸新聞も本社が倒壊し、京都新聞に間借りして発行していた時期の記事だったと思います)。

その後、M病院は1997年に同じ場所に再建され、現在も救急指定の病院として機能しています。

その後の彼がどうなったのかは、わかりません。


僕がどうしてこの記事を15年経った今も忘れられないのかはわかりません。M病院は今住んでいる場所から10分ほどで着くところにありますが、当時の僕は隣市の芦屋に住んでいたこともあって、M病院に特別な思いはなかったはずです。前日に何かの用事で行った柏木ビルが形を残したまま横倒しになっている写真の方が衝撃的だったし、炎上する長田区のテレビ映像(芦屋市は電気がすぐに復旧したのでテレビを見ることはできました)の方が被害の大きさを物語っていたと思います。

でも、僕はこの記事を忘れることができませんでした。本当に小さな記事だったと思います。

「神戸は復興した」という言葉を聞くたびに感じる違和感が原因なのかも知れません。震災復興再開発事業に仕事で関わって「これはなにか変」と思い続けていたことが原因なのかも知れません。

僕にとっての神戸は、あの日に死んだまま甦ってはきませんでした。
大好きだった地元の風景はもう二度と戻ってくることはありません。
古い家が狭い路地に立ち並んで、その間から見えていた六甲山の風景を、僕は今も覚えています。その家々は公園になったり新築の新しい家になりました。いまだに更地のままのところもあります。狭かった路地は広く拡幅されています。変わらないのは六甲山の緑くらいです。

そんな僕は「5:46」の主人公にこの記事の男性をモチーフとして、僕の「死んだ神戸」への気持ちも込めました。そして、「笑顔が戻りますように」は、あの日から分裂したもうひとりの僕に書いてもらいました。この記事の女性がモチーフでもあり、もう対話することもできない15年前の街から今の僕への歌でもあります。

この2曲は、あくまで僕の想像の産物です。

娘たちが授業参観で歌った「復興の歌」に「神戸が元に戻ることなんてこの先二度とない」と吐き捨てた僕の思いを詰められるだけ詰めました。

地震大国である日本では、数年に一度くらいの単位で、彼のような思いを、僕のような思いをしている人が必ず出てきます。

そんな人たちに、少しでも「泣ける環境」だったり「ひとりじゃないよ」ってメッセージを届けられたら、それは素晴らしいことだと思います。

そうして、僕は今日も「死んだ神戸」で生活しています。
違和感は日に日に大きくなっていってます。
それでも見届けられる限り、この街の行く末を見届けたいと思います。

全国の地震の後遺症で苦しむ人たちへ。
少しでも、ほんの少しでもいいから届きますように。


コメント

  1. 蓮-hasu- | URL | 1m.x47P6

    Re: 「5:46」と「笑顔が戻りますように」

    こんばんは。蓮-hasu-です。

    言葉も見つからなかったので「拍手」を押そうかと思ったのですが、これは「拍手」ではないな・・・と思ったので、そっと書き込みます。

    娘さんたちが神戸を大好きな街だって言えるように健やかに育って欲しいな、って思います。
    そこはたかやさんの育った神戸ではないだろうけれど、彼女たちの神戸が育っていくんですね。

    彼女達の笑顔がきっとたかやさんを助けてくれますね!

  2. しのぶたかや | URL | MAkumj2k

    Re: 「5:46」と「笑顔が戻りますように」

    蓮-hasu-さん、ありがとうございます<(_ _)>

    娘達にとって、この神戸が心の故郷になってほしいですね。

    過去はもう戻らないと言いますが、大好きだった街を一瞬で奪われたショックから未だに立ち直れないんですよね。

    だから、震災を知らない娘たちの世代が作ってくれる新しい神戸を、古い神戸を愛するもののひとりとして見届けようと思います。

    ほんと、今住んでる近辺には子供達が多くて、昼はいつも子供の声が絶えないのが救いです。

    子供は国の宝って本当ですね。

  3. ムジカデリク | URL | -

    Re: 「5:46」と「笑顔が戻りますように」

    じっくりと読ませていただきました。

    大好きな街がとてつもない何かによって損なわれるのは、どんなに想像しても、現実にその身体で感じる感覚とは程遠そうです。
    生まれてから(たかやさんとほぼ同じ年数を経てきていますが)まだン十年の中でこんなにも色んなことがあるんだな、良いことも悪いことも、って改めて感じました。

    昨年三宮を経て山陰を訪れたお話を以前少しだけコメントに書きましたが、すごく天気のいい日で、平日なのに活気もあって、10数年前にここを震度7が襲ったとは思えませんでした。
    多くの人が力を尽くして築き上げたものなんでしょう。傷跡は感じられなかった。
    だけど、失われてもはや取り返せないものは数え切れないと思いますし、それぞれの人の心にも癒えない傷が残っているんですね。
    もしかしたら街もそうかもしれない…。

    >違和感は日に日に大きくなっていってます。
    グサッと来ました。
    違和感、無くなることはないかもしれないけど、
    たかやさんはじめ多くの人の眼差しで神戸が見守られていっているのであれば、
    街は幸せだろうなと思いました。

    僕は札幌に愛情を注げているのかな…、注げていけたらいいな。

  4. しのぶたかや | URL | MAkumj2k

    Re: 「5:46」と「笑顔が戻りますように」

    >ムジカさん
    「笑顔が戻りますように」の背景が少しでも作曲されるときに役に立つかな…と思ったんですが、元が実話ベースだけにやっぱり重いですね(^^;)

    僕ら夫婦は新婚旅行先が札幌だったので、札幌も小樽も大好きですよ。だから漫画ではあったけど「最終兵器彼女」での札幌空襲とかは、ちょっと正視しづらかったです。

    三宮はもうほとんど傷跡らしきものは見えにくいですね。でも、4駅先の新長田(僕が再開発事業に関わったところです。そのすぐ西が焼け野原になった菅原鷹取地区になります)などは、15年経った今でも再開発の遅れもあって、コミュニティが破壊されたまま箱だけが立ち並ぶ異様な状況になってます。実物大鉄人28号とか、明るい話題を作ろうと町の人は頑張っているんですが、お年寄りが元々多かった街だけに、高層マンションの中に部屋をもらっても…という方が多く、昼間でも街は閑散としてます。箱だけ作ってその中に人を放り込んだら終わりなのか? という疑問も、僕の退職理由のひとつだったりします。

    本来ならゆっくりと変わっていくはずだった風景が、ある日を境にがらっと変わってしまうと言うのは、災害か戦争くらいしかないので、体験しないに越したことはないです。今でも「ここにはあの店があったなあ…」とか「ここに住んでた友達は元気だろうか…」とかその場所を通るたびに思います。

    一度止まってしまった時間が動き出すのはなかなか難しいようで、それでも時間は容赦なく進んでいくから、乖離は少しずつどうしても大きくなりますね。最近自分が時間の流れについて行けてないことを痛切に感じることが多くなりました。両親が思ってる以上に年老いてきたこととか、反抗期真っ盛りの娘の成長とか、どんどんどんどん変わっていく街の風景とか…。そんな流れに逆らうかのように、六甲山は変わらずに目の前にあって、1年を「変わらないものもある」って教えてくれてるようで、余計に混乱してるのかも知れませんね(^^;)

    ムジカさんも、札幌に十分な愛情を注げてると思いますよ。
    だって、以前お互いがまだどの辺に住んでるって情報持ってない頃に「北海道人」ってハッキリと書かれてましたから(笑)

    お互い、今住んでいる街を、温かく見守っていきましょう。
    そこからまた、何か見えてくることがあるかも知れませんしね。
    (ぐだぐだ文章ですみません<(_ _)>

  5. ムジカデリク | URL | -

    Re: 「5:46」と「笑顔が戻りますように」

    >一度止まってしまった時間が動き出すのはなかなか難しいようで、それでも時間は容赦なく進んでいくから、乖離は少しずつどうしても大きくなりますね。

    はざまに身を置くと心がすり減っていきそうです。
    おっしゃる通り、そういう状況には恵まれないほうがいいのかもしれません。
    でも皮肉なことに、そういうことでもないと気付けないものもあるんですよね。
    30年以上生きてきて、いまだに何か自分の中に潜んでいたものに気付いて、それがどんなに小さいものでも愕然とすることが多々あります…。

    札幌自体は歴史が浅いけど自分が生きてきた年月よりはよほど長くて、だからそれなりに地元愛は育まれてきていると思うんですが、山陽から山陰を抜けて行ったときに目にした、歴史の厚みを感じる景色には完全に圧倒されました。
    歴史と一口に言っても今まで生きてきたたくさんの人の気持ちがあそこに滲んでいると思います。街にも村にも山林にも。

    ちなみに北海道の外の人に「札幌の人は暖かいけどドライだ」と言われることがよくありますよw
    そんなつもりはないんだけどなあ。

  6. しのぶたかや | URL | MAkumj2k

    Re: 「5:46」と「笑顔が戻りますように」

    >ムジカさん

    >でも皮肉なことに、そういうことでもないと気付けないものもあるんですよね。
    そうなんですよね、ホントに。僕は育った街がどれだけ好きだったのか思い知らされました。あと、「人って簡単に死ぬんだなあ…」って(この直後に疎開先だった伯母の家で従兄が自殺したこともあったりしたんでよほどこたえたんでしょうね)。

    僕は札幌に行ったときはちょうど雪祭りの準備中で、大通公園とかは行かずに時計台と…えと、あの元結婚式場だったと言われる洋館(名前忘れちゃった(^^;)を見てきました! 神戸も古い洋館はありますが、あのふたつの建物にはものすごい重みを感じましたよ。特に時計台なんて、ビルの合間にぽつんとあって、「ああ、札幌の人はこの建物を本当に大事にしてるんだなあ…」って。今度は是非夏に行って、色々と散策してみたいです。

    >暖かいけどドライ
    僕の接した方はムジカさんも含めてみんな暖かい方ばかりですよ♪

  7. 咲子 | URL | Yqf9uHks

    Re: 「5:46」と「笑顔が戻りますように」

    こちらでは、はじめまして、咲子です。
    『アーパスの独り言』のお礼のメッセージを送ろうとおもって、blogをさがして、みつけました。
    遅すぎで、すみません。

    私自身、現在災害に巻き込まれております。
    宮崎県出身かつ在住の身です。

    >娘たちが授業参観で歌った「復興の歌」に「神戸が元に戻ることなんてこの先二度とない」と吐き捨てた僕の思いを詰められるだけ詰めました。

    地震大国である日本では、数年に一度くらいの単位で、彼のような思いを、僕のような思いをしている人が必ず出てきます。

    そんな人たちに、少しでも「泣ける環境」だったり「ひとりじゃないよ」ってメッセージを届けられたら、それは素晴らしいことだと思います。

    そうして、僕は今日も「死んだ神戸」で生活しています。
    違和感は日に日に大きくなっていってます。
    それでも見届けられる限り、この街の行く末を見届けたいと思います。

    全国の地震の後遺症で苦しむ人たちへ。
    少しでも、ほんの少しでもいいから届きますように。

    私宮崎口蹄疫関連でボランティア(後方支援)に参加しているのですが、神戸や新潟の方からの物資が多くて、やはり経験の差なんだな・・・と思いました。

    まだ分かりませんが、私が幼い頃遊んだ田舎の景色が、がらりと変わってしまうのは、確かです・・・。
    私の暮らす町が、光景が、表情を変えてしまうことも、もう逃れられない事実です・・・。
    今も、変わりつつあります・・・。

    私もいつかしのぶ様のように、『死んだ宮崎』を感じる日が来るのでしょうか・・・怖いです。

    今回の口蹄疫で、自分の中にある心の一番やわらかい部分にある『ふるさと』の存在の大きさを改めて感じました。
    このような事態にならないと、こんなにも当たり前のことが分からないんですね・・・。

    いずれ、私の体験を詞にしたいな・・・と思っています。
    風化させないために、次の悲劇を生まないために。

    P.S.長文、乱文失礼致しました

  8. たかや@管理人 | URL | MAkumj2k

    Re: 「5:46」と「笑顔が戻りますように」

    >咲子さん

    こちらでは初めまして!

    宮崎、報道でしか知らないんですが、大変な状況のようですね…。被害の範囲がどんどん広がっていって、感染した家畜の処分場が足りないとか…。畜産業を営まれてる方が多いからこその大被害なんでしょうけど、本当にいたたまれません…。

    宮崎の畜産業が元の姿を取り戻すまで、どれだけの時間がかかるのかわかりませんが、一刻も早く沈静化して、再出発の時が来てほしいです。風評被害とかもなくなったらいいのに。県知事さん先頭に頑張ってきている宮崎だけに、国も含めて、形は変わってしまうかも知れないけど、宮崎が再出発できる準備を進めてほしいですね。

    「アーパス」は、そんな咲子さんの思いも曲に込めたつもり…とムジカ隊長も仰ってました。

    いつか、辛くても思い出して詞にできる日が来ることを祈っています。

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