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私信ですよ。

2010年06月09日 00:16

>壱の人さん

CD表紙のイラスト、本当にありがとうございました! イラストが素晴らしすぎてどこにタイトル入れるかでまた迷ってしまいました(結局momentumと同じところに入れたんですが(笑)
音源はムジカさんが条件付きではあるものの、WAVファイルを公開してくださっているので、作ろうと思えば作れますよ! 本当にムジカ隊長は太っ腹! ありがたい限りです。
ちなみに「コンクリ詰め」はドラム缶に入ってしまってる時点で僕の中では決定でした(笑) この後支笏湖(札幌近郊の湖)に沈めに行きます。リンとレンが(笑)

コラボは、その気になったときに是非いらっしゃってください。今のところムジカさんの「アーパスの独り言」のイラスト作成が進んで、僕の楽曲の「歌詞募集」が行われている程度ですが、また少しずつ企画が上がってきそうな雰囲気があるので、お力を貸していただけるのなら、貸していただけるとありがたいです。

僕の楽曲まで聴いてくださってありがとうございます! 素人曲なんでお恥ずかしい限りですが、あれが僕の精一杯です(^^;) 何かを感じていただけたら、書き手としてはすごく嬉しいです!

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「5:46」と「笑顔が戻りますように」

2010年06月09日 00:00

長くてものすごく重い記事です。興味のない方はスルーした方が賢明です。

では、注意喚起終了。




ピアプロにもサイトのボカロ部にも登録している楽曲「5:46-動かない針-」と「笑顔が戻りますように」の舞台裏というか、この曲を書くきっかけになった事件を今日は記事にしてみようと思います。


「5:46」の主人公である男性と「笑顔が戻りますように」の主人公である女性は恋人同士でもあり、婚約もして、同棲中でした。

1995年1月16日夜。神戸。
看護士であった彼女は、夜勤のためいつもの笑顔を残して二人の部屋を出て、勤務先のM病院へ向かいます。そのまま夜勤を終えて、彼の待つ部屋へ帰るはずでした。

1月17日5:46。

淡路島を震源地とした大地震が神戸にも甚大な被害をもたらしました。M病院のあった東灘区旧本山村エリアは震度6強の激震で、M病院は圧壊しました。圧壊というのは、例えば7階建ての建物ならその内の一部である3階と5階だけが崩壊する現象で、その他の階は比較的軽微なな被害で済む現象のことです。彼女は、この圧壊した階で夜勤に就いていました。(M病院の記事を調べると全壊、倒壊という言葉も出てきていますので正確な状態はわからないのですが)

このM病院では、看護士や患者が正確な数は忘れましたが、十名以上亡くなっています。

揺れの収まった直後、彼は部屋を飛び出して彼女の勤務していたM病院へ向かいます。まだ携帯電話も普及しておらず、地震で電話、電気、水道、ガスの全てが寸断され、連絡を取るには現地に行くしかなかったのです。

彼女の勤務していたM病院は、よく晴れた朝陽の中で悲惨な姿を晒していたことでしょう。神戸市の中で倒壊した入院施設のある病院はこのM病院と長田区にあったN病院の2箇所だけだったんですから。

あちこちで建物が崩壊し火災まで発生、消防も救急も、警察さえ身動きが取れない中、M病院には勤務者や入院患者を心配する人が集まってきていたことでしょう。それでも、既に圧壊している病院の中に入ろうとした人は少なかったのかも知れません。
彼は、きっと意を決してその圧壊した病院に入りました。余震が起きれば病院の崩壊はさらに進み、自らも命の危険があることを承知していたでしょうが、彼女の安否を気遣う気持ちが勝ったのだと思います。

彼が、彼女の第一発見者でした。

ですが、すでに彼女は死亡していました。

当時の新聞記事には、死因まで書いてなかったように記憶していますが、おそらく圧死されたのだと思います。建物の崩壊に巻き込まれて即死だったのかも知れません。

神戸新聞の新聞記事には、ここまでしか書かれてなかったように記憶しています(神戸新聞も本社が倒壊し、京都新聞に間借りして発行していた時期の記事だったと思います)。

その後、M病院は1997年に同じ場所に再建され、現在も救急指定の病院として機能しています。

その後の彼がどうなったのかは、わかりません。


僕がどうしてこの記事を15年経った今も忘れられないのかはわかりません。M病院は今住んでいる場所から10分ほどで着くところにありますが、当時の僕は隣市の芦屋に住んでいたこともあって、M病院に特別な思いはなかったはずです。前日に何かの用事で行った柏木ビルが形を残したまま横倒しになっている写真の方が衝撃的だったし、炎上する長田区のテレビ映像(芦屋市は電気がすぐに復旧したのでテレビを見ることはできました)の方が被害の大きさを物語っていたと思います。

でも、僕はこの記事を忘れることができませんでした。本当に小さな記事だったと思います。

「神戸は復興した」という言葉を聞くたびに感じる違和感が原因なのかも知れません。震災復興再開発事業に仕事で関わって「これはなにか変」と思い続けていたことが原因なのかも知れません。

僕にとっての神戸は、あの日に死んだまま甦ってはきませんでした。
大好きだった地元の風景はもう二度と戻ってくることはありません。
古い家が狭い路地に立ち並んで、その間から見えていた六甲山の風景を、僕は今も覚えています。その家々は公園になったり新築の新しい家になりました。いまだに更地のままのところもあります。狭かった路地は広く拡幅されています。変わらないのは六甲山の緑くらいです。

そんな僕は「5:46」の主人公にこの記事の男性をモチーフとして、僕の「死んだ神戸」への気持ちも込めました。そして、「笑顔が戻りますように」は、あの日から分裂したもうひとりの僕に書いてもらいました。この記事の女性がモチーフでもあり、もう対話することもできない15年前の街から今の僕への歌でもあります。

この2曲は、あくまで僕の想像の産物です。

娘たちが授業参観で歌った「復興の歌」に「神戸が元に戻ることなんてこの先二度とない」と吐き捨てた僕の思いを詰められるだけ詰めました。

地震大国である日本では、数年に一度くらいの単位で、彼のような思いを、僕のような思いをしている人が必ず出てきます。

そんな人たちに、少しでも「泣ける環境」だったり「ひとりじゃないよ」ってメッセージを届けられたら、それは素晴らしいことだと思います。

そうして、僕は今日も「死んだ神戸」で生活しています。
違和感は日に日に大きくなっていってます。
それでも見届けられる限り、この街の行く末を見届けたいと思います。

全国の地震の後遺症で苦しむ人たちへ。
少しでも、ほんの少しでもいいから届きますように。


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